(八)はじめに ── 「読書案内」の方法 それで、こんなに長々と前置きをすることになるとは思っていなかったんですが、これから私がやろうとしている「読書案内」の方法について簡単にいっておこうと思います。 具体的に作品名をあげて ── 辻邦生『夏の砦』(文春文庫)── 例としますが、私がこれからいうことは、そのまま私の「手書きPOP」の方法でもある(あった)ので、ここまでの記述からして好都合かもしれません。 私は『夏の砦』にこういうPOPを書いて、平積みにしました。
たったこれだけです。「二三一ページ半ば〜二三二ページ」というのは、このページを立ち読みしてほしいということです。これは、映画でいうと「予告編」(こういうキャストで、こういう登場人物がいて、こういう音楽が流れ、こういうシーンや台詞があるのなら、この映画を観てみようか、と観客に思ってもらうためのものですね)に当たります。つまり、こういうことがこういうふうに描かれているのならば、この作品の全体を読んでみたい、と思ってもらうことが狙いです。 この『夏の砦』という文庫は、文庫として比較的厚い部類に入ります。表紙(カヴァー)はとても地味で、そうして手に取って、ぱらばらとめくってみると、どのページもぎっしり文字で埋め尽くされている感じで、まあほとんど真っ黒の印象です。だから、敬遠されてしまう、と私は思うんです。 ところが、ではそんな印象のこの本に実はどんなことがどんなふうに描かれているのか、というと、こんなことがこんなふうにだ、というのを知ってもらいたくて、立ち読みページを指定したわけです。 そこにはこんなことがこんなふうに描かれています(「蝋燭」の「蝋」という文字がほんとうはこれじゃなくて旧字なんですが、残念ながら入力できません)。
これを立ち読みして、こういうことがこういうふうに描いてある作品ならば、読んでみようかなと思うひとがいます。本の厚さも、カヴァーの地味さも、文字で埋め尽くされたようなページという、ふつうには悪条件ととられかねないものも、この「こんなに美しい描写」があるのだったら、許容できると思うのでしょう。というか、こういう描写のある作品ならば、当然本も厚くなるでしょうし、ページも文字で埋め尽くされたようなものになるでしょう。そう理解してもらえるようなんですね。 それと、「第四章からはすべてが動きだします。」というのを書いたのには事情があって、それはこの『夏の砦』という作品は、まず序章があり、それから第一章・第二章……という構成になっているんですが、序章はともかく、第一章から第三章までは、結構読むのがしんどいという感じなんです。この作品は第四章から折り返すという形のもので、第三章まででわからなかったことが、第四章以降で次々にわかるようになるんです。だから、第四章からはかなりすらすらと読めるようになるんですよ。というわけで、なんとしても第四章まではたどりついてほしい、そこまでは読むのをやめないでほしいというのが「第四章からはすべてが動きだします。」の意味です。 私はそういうふうに自分自身の経験からPOPを書いていたんです。つまり、私はこのように自分で注釈できるほどに効果を「計算」していたわけです。 (「辻邦生の最高作!」というのは、いまとなっては辻邦生自身を知らないひとが大多数でしょうが、知っているひとは彼の最高作というと『背教者ユリアヌス』などといいだすだろうという ── たしかに代表作ではあるでしょう ── ことが予想されたからですね。だから、あえてそう書いたわけです。『夏の砦』は辻邦生の初期代表作というのが一般的な位置づけです。しかし、それはやはり違うのではないか、初期といわず、最後までの、ではないかというのが私の意見なんです。もっとも私はまだ『西行花伝』も『フーシェ革命暦』も読んではいないんですが。) そういうふうな「読書案内」を考えているんです。まずは、「あなたにももちろん読めます」といいたいし、読むときに感じる抵抗感を前もって示しておいたり、「こういう読みかたというのもあるんだ」と経験にもとづいた案内もします。そのためにたくさんの引用をするわけです。 『夏の砦』についていえば、実に細々とした範囲でこの作品を大切に思うひとたちがいるおかげで、河出書房の単行本から新潮文庫へ、新潮文庫から文春文庫へと、まだ繋がって流通はしているんですが、このままでは遠からず店頭から消えてしまうのではないかと思っています。現にこの本を置いている書店は非常に少ないでしょう。というか、ほとんどの書店にはないだろうと思います。まして、これが平積みにされることもない。また、この本は、ただ平積みしてあるだけでは、誰も手に取らないだろうと思います。だから「手書きPOP」が必要だったわけです。こういう後押しがなければ、もはや誰もこの作品の存在にすら気づくことがない。それで、では、この作品の「よさ」を知っている書店員がどれだけいるかというと、もう全然いやしないのだろうと思います(いたとしても店が彼にこの本の平積みを許すかどうか。他にもっと商売になる本がたくさんあるだろうが、とかなんとかということで)。かといって、この作品をいまも誰かがどこか雑誌かなにかで紹介しつづけているかというと、そんなこともない(そういう媒体がどういった傾向のものしか扱わないかはもう書きました)。 書評でも「手書きPOP」でもそうですが、こういう作品をこそ扱うべき・扱いつづけるべきなんだと思います。しかし、現状では、ますますこういう作品を追いやる方向で書評や「手書きPOP」は書かれていると私は考えます。 こういう作品を生き長らえさせるためには、誰かがどこか、たくさんのひとの目に触れる(その可能性のある)ところで紹介しつづけなければならないんです。これはおそらく紙や電波のメディア・それとともに書店店頭ではもう無理なんですね。いまはインターネット上でするのが最も適当だろうと思います。で、しかたがない、私がやる、ということです。 |